短編拳銃活劇単行本vol.1

□44マグナム
1ページ/56ページ

 あの女がこの街にやって来るまでは『割と』静かだった。
 平穏無事とはいかなくとも、気になるほどの死体は製造されなかった。気になるほどの行方不明者は出なかった。もうすぐ春がやってくる季節。まだまだ寒さが残る時期。陽が暮れると身に染み入る寒さが足の裏から這い上がってくる。そんな時期にあの女はやって来た。
 黒い革製のハーフコート。よれよれに草臥れた、年季の入ったデザイン。程よい掠れ具合がビンテージな雰囲気を醸し出すので、それはそのような印象を演出させる為の加工かと思わせた。実際には、本当に永く愛用しているだけの代物で、深い愛着を感じる。ハーフコートの前を止めずに歩く。いつも質素なデザインのセーター。デニムのズボン。黒い運動靴。装飾に関する一切を廃した目立たない風貌。170cmの長身をハーフコートに包んだ彼女が訪れてからこの界隈が騒がしくなったと悟った時にはこの街も随分と物騒になっていた。
 冷たい雨が降っていた。その時は雨だった。寒い。空気が生温い。気圧の谷が近い。彼女はコンビニで売られている透明のビニール傘を差して路地裏を歩いていた。足元の運動靴は跳ねた水でズボンの裾を冷たく汚す。長い髪をポニーテールに纏めて路地裏を歩く。街灯が乏しい路地裏。人気の無い路地裏。そもそも此処は廃棄されたに等しい区画の路地裏だった。社会の落伍者が屯している他に気配の無い狭い空間を歩きながら辺りに視線を走らせながら歩く。視界に入る人影は浮浪者ばかり。疎らな位置取り。浮浪者同士で連携しているコミュニティの空気も感じない。浮浪者と世捨て人の境を歩く人間が屯しているエリアだと解釈した方が早い。
 その女はハーフコートのハンドウォームに右手を差し込む。其処からセロファンで包まれた安物の葉巻を取り出す。唇と前歯でセロファンを剥いて中身の安葉巻を露出させると、前歯でヘッドのキャップを噛んで千切る。千切れたヘッドの葉は吐き捨てる。
 横柄に葉巻を横銜えにすると、使い捨てライターで葉巻の先端を炙る。歩きながら、視線を葉巻の先端に固定したままだ。唇の端からホンジュラスの紫煙を大きく吐き散らかすと、苦い薬でも嚥下したかのような渋い顔で再び視線を辺りに配る。全長122mm、太さ17mm程度の短く太目の葉巻を唇の端で燻らせながら、歩みを休めずに路地裏を行く。
「…………」
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ